ニュースレター第3弾を公開します

【テーマ】「小笠原の言語と文化」八雲サロン第174回(2000.12.8)
【ゲスト】ロング・ダニエル氏 都立大学人文学部助教授文学博士

●話の概要
 小笠原における実地調査を基に、日本人の国際化、語学教育の国際化、言語生活の国際化、日本語そのものの国際化という視点ヘ一般化する絶妙な語り口であった。

  1. 小笠原の歴史:1670年代日本の漂流船が発見した時は無人島、1830年代にハワイ諸島から英国人など欧米系とポリネシア・ミクロネシア系の人達が入植、1870年代八丈島から日本人が集団入植し日本化が進行、在来欧米系は自然に日本へ帰化した。その後米軍統治時代は途中から欧米系のみ帰島が許可されたが八丈系は内地に1968年まで居住。このような歴史がまだ現存している費重な「小笠原混合言語」を生むことになった。
  2. 接触言語:約150年の間で、前半は欧米言語(ポルトガル・デンマーク・イタリア・ドイツ・フランスなど)とグアム・ポリネシア・ミクロネシア言語が接触砲合(欧米系は男性のみ)して「ポニン言語」(日本の地図が無人島と表記、現地仏人がBUNINJIMAと訳し、BONINにと推定)が生まれた。後半に日本語とぼにん語が接触融合し、「小笠原混合言語」が生まれた。
     このような構造を調査する手がかりは、記録になく現在残存している島民から直接調べる方法になる。但し1870年代チリの地震の津波により日記など記録が海の底に眠っているので是非見つけたいと念願している?
     接触言語は2世の時代に入ると単語は色々入り交じり、独特の文法が生まれる。英語で使っている動詞があとにくる、またweは我等から「me等」(ミーラ)となり、See you againが「また見るよ」となる。
  3. ダイゴロシア的生活:Diglossia (2つの言語)B 治政府が学校を整備し、しばらくは日本語・英語両方で教えていた時期もあった。その後、学校では日本語、家庭では英語、教会では英語、神社では日本語などの生活が普通になった。現在約2千人の島民の内、欧米系は150人であるが、歴史をみると、比率では100%の時期が前半の70年、戦後の20年程度と2回ある。現在、一般的には、日本語と小笠原混合言語を中心に英語、ポニン英語が使われている。これらをすべて使い分ける人もいる。
  4. 国際化:ローカル故にインターナショナルというところがあり、カタカナ名が正規の住民がいたり、八丈系の人でも初めて内地に来て皆東洋系の顔ばかりで驚いたという話しもある。  このあと活発な懇談をしながら、まとめに入った。この研究の目指すポイントは、例えば日本語句の源はどのような言語接触から創られて来たかについて、解明出来る実験室的な意味がある。また国際化が進むと言語接触がどのように進むかの予測にも寄与する。均一化しつつ多様化し、世界中に「Englishes」があると言われる状況がこれからを暗示している。このほか、主語・複数単数・冠詞の変化融合そして一定の文法へと変化していくプロセスなどについて、また小笠原の現状や生活実感にわたる話しへと移り、是非小笠原に行ってみようと参加者の関心は一気に高まるなど楽しく懇談を終えた。

【現役学生の感想】

都市環境学部 C.M.さん

 私は,23年の夏に小笠原へ行った(講演者のロング先生も同行)が,そこまで独特な言語が使われているようには感じなかった。現在では,島にルーツを持たない移住者も増え,混合言語の話者人口の割合が減っている可能性がある。小笠原返還から50年が経ち,返還当時の住民たちは減っている。当時の混合言語は,いずれ消滅してしまうかもしれない。